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アフガン日記2008


2008年2月からのアフガン日記です



2月25日
最後までドタバタした出発日だった。
今日の午前中まで買い出しに奔走した。(もっと早く準備すればいいのだが)
家を出るときちょっと迷った。
チケットを捨てて南の島へ飛んじゃおうかと。笑!

寒いは苦手な僕です。

今回はエミレーツを使うので羽田ー関空。
寂しい出発だったな〜。
アフガニスタン戦争のさなか、アフガニスタンへ向かう時、成田空港にアエラの編集者、NHKの友人記者、僕の友人。10人以上が集まってくれた。

今の方が余程危険なのにね。

いつも手荷物検査ではイヤな思いをするけど、今日は違った。
PCを鞄から出して検査終了後、係員のお姉さんが「パソコンしまうのお手伝いしましょうか」と声をかけてくれた。
こんな事は初めて。
保安検査員がみんなこんな風に接してくれたら良い旅になるだろう。

カメラで一杯になったバッグにパソコンをしまい直すのは大変だけど、係員のお姉さんに見られるのはもっと大変なので丁寧にお断りした。

出発まで最後のネットをと思いラウンジに入るがすべてのランケーブルが調整中になっていた。
残念!と思いつつもカウンターのお姉さんに聞くと、使える人と使えない人がいるので調整中にしてあるらしい。
トライしてもいい?と聞くとOK.
こうやって日記を書いていると言うことは僕のMacはなんとか受け入れてもらえたらしい。
運が良い。しかし・・ここで使っていいのかな〜笑!



2月25日〜26日
関空は毎回寂しい。
国際空港なのにエミレーツが出発する23時近くになるとあいている免税店が殆どない。
普通の売店すらかろうじて一軒あいているだけ。
今回も土壇場まであちこちと連絡しながらファイナルコール寸前で飛行機に乗り込んだ。

僕の席は36番B、かなり後ろの方だ。隣が空席だといいな〜と思いつつ通路を歩くと、「久保田さんYです!」と声をかけられた。
振り向けばそこには一人の女性が。
はて誰だっけ?と思いつつも。「あ〜どうも。ドバイでゆっくり話しましょう」 と声をかけ自分の席に。

隣には日本人がいたが、一番後ろの席が空いていたので使わせてもらうことにする。
シートベルトサインが消える頃、そっか〜国連で会った人だ。と思い出した。

先日、国連でミーティングがあり、その後立食パーティーで国連の副代表が何人ものNGOの人を紹介してくれた。
一気に紹介されたため、名刺交換だけで顔まで覚えていなかった。
しかし、よく僕だと気づいてくれたものだ。

サインが消え、Yさんの所へ話に行くと、なんとアフガニスタンへの着任が決まったそうだ。これまた偶然。
彼女はカブールで僕はジャララバードだけど。
ドバイから国連機で行くそうだ。
かつて2回国連機に乗ったけど、手荷物検査がうるさくないしチェックインは簡単だしとてもいい。

ドバイで降りるとトランスファーデッキは長蛇の列。結局Yさんとは再会 できなかった。
外へでるか空港内で過ごすか迷う。
空港内にドバイ市内へなら無料でかけられる電話があるので、前回使った安宿に電話してみた。なんと満室。

観光する気分でもないので結局空港で12時間近くつぶすことにする。
ドバイはハブになる空港だけあって、すごい人だかり。
どっか落ち着ける場所はないかとさがすが、見つからない。
前回イラクに行くときは床に寝たんだけど・・

仕方なく高くて有名なトランジットホテルに部屋をとった。
仮眠し始めて数時間後、10:20突然、fire Alarmが鳴り響く。
火事かよ、しかし考えたのはテロ。
しかしそれらしい気配がない。
めんどくさいな〜って思いながら起きて、ゆっくりトイレに行ってから避難しました。
こーゆー人が焼け死ぬのかな。と思いつつ。

ホテルの従業員に聞くと、誰かが間違って非常ベルを押したらしい。
なんてこった。
気がつけば、財布とパスポート、カメラ一台しか持っていなかった。
PCは部屋に置き去りだった。
おかげで貴重な体験ができた。



2月26日
お陰様で無事パキスタンに到着できた。
深夜2時半という到着時間。
僕がずーっと使っていた定宿は9・11以降観光客が減って閉鎖してしまった。
日本からホテルを予約することができなかったので、空港でと思ったが、
イスラマバードの空港にはホテル案内がなかった。

ドバイと違って空港で寝てたりしたらテロを警戒して起こされる空港。
しかたなくタクシーでホテルに向かうことに。

最初に声をかけてきたドライバーは500ルピー。次が300。
その次は10$。
さすが深夜だけあってかなりな金額。
ちなみに昼のローカルプライスは80ルピーくらい。
外国人は頑張っても100ルピーくらい。
現在の正確なレートは分からないけど、だいたい×3でいいくらい。

パキスタン訛りの英語を聞いていたら昔覚えた片言のウルドゥー語を思い出してきた。
これがきいたかな。
良いドライバーを見つけ、ホテルにたどり着くまで200ルピーでOKをもらった。
3カ所まわってようやくチェックイン。
最初の難関は突破した。



2月27日
昨晩ホテルに到着したのが遅かったにもかかわらず、パキスタンらしい騒音で早起きしてしまった。
大きな誤算があった。
まだまだ寒いと思っていたパキスタン、2月の終わりを迎えるとともに急激に気温が上がっているようだ。
寒さ対策を万全にしてきたが、よく考えたらトレーナー、セーター以外の普通のシャツを一枚も持ってきていなかった。
この国の文化を考えるとさすがにTシャツ一枚で街を歩く気にはなれない。
しかたなくエディーバウアーのタートルネックを着て歩く。(バーゲン品)

財布の中をみてビックリした。昨晩ホテル代のデポジットを払っておつりをもらったが、紙幣が新しく、小さくなっている。
1000ルピー札は使えたけど、他の札が使えなかったらどうしようと思う。
前回パキスタンに来たときに使っていたパキスタンルピーの残りがまだ沢山ある。
アフガニスタンもイラクも紙幣が新しくなって古い紙幣は使えなくなってしまった。


左が新しい10ルピー札



いつもだったらいきなりカメラをぶら下げて街を歩くのだが、今回はなんか空気が違う気がする。
初めて来た街と同じように街を歩きながら雰囲気を味わうことにする。
まずは腹ごしらえ。ピンディーに来たらいつも立ち寄る地元の大衆食堂へ。
ちょうどお昼時だったため店内は殆ど満席。しかも外国人なんて僕だけ。多少ためらいつつも地元の人たちと相席させてもらう。

今日のお昼ご飯はチキンカライ。
カメラを取り出し、料理を撮影する。やっぱり昔と違う。以前なら料理を撮影していると俺を撮ってくれっていうジェスチャーをしてくる人が沢山いたのに、みんな好奇の眼差しで見ているだけだ。
しめはチャイ。ここのチャイは僕としてはピンディーで一番美味しいと思っている。
チャイも撮影したかったが、チキンを食べて手が油だらけなのでやめた。

チキンカライ


この数分後、300メートル先のGPO(郵便局)の近くで爆弾テロ事件があった。
いつもなら食事をしたあと両替のためにGPOの裏へ向かうのだが、今回は前回来た時持ち帰ったパキスタンルピーが沢山あったので両替屋さんにいかなくてすんだ。
結果良かったのか悪かったのか、僕が爆発音を聞いたのはコミッティーチョークへ向かう乗り合いバスの中だった。

ラーワルピンディーのもう一つの繁華街コミッティーチョークへ行く。
コミッティーチョークは安宿が多くあり、バス停も近いのでイスラム圏からきた労働者達が多い地域だ。
昔の記憶を頼りに乗り合いのミニバスに乗る。
サダルからコミッティーチョークまで8ルピー。昔は2ルピーだった。だいぶ物価も高くなったようだ。

車掌さんがここだよ!と教えてくれたのでバスを飛び降りる。降りきる前に走り出すのがパキスタン。
え!ここ違うんじゃない。と思うほどコミッティーチョーク辺りは変わっていた。
大きな道がアンダーパスになっていてビックリ。
裏道に入り、昔お世話になったタイプ屋さんを探す。
アフガニスタンに行くときレターが必要で、手書きじゃ信用されないのでタイプ屋さんを見つけタイプしてもらったのがきっかけで、パキスタンに来る度に訪れ、一緒に食事をしたりしていた。

再開発で古い建物が壊されていて、残念ながらタイプ屋さんは見つからなかった。
リアカットチョークにあったポピュラーインというゲストハウスも無くなってしまいピンディーには知り合いがいなくなってしまった。

思い出を辿るようにリアカットチョークに向かって歩き、先日ブットー氏が殺害されたリアカットパークを訪れた。


リアカットパーク



選挙のポスターが貼ってある中、公園ではおじさん達がチャイを飲みながらカードゲームをしていた。
のぞいているとチャイをご馳走してくれた。向かい側でゲームしていたおじさんがタバコを一本投げてくれる。
こういうところは昔のままなんだけど、街全体の雰囲気は変わってしまったと思う。

かつては衛星携帯電話を使っていたが、今では現地の携帯電話のシムカードを買った方がより安く、しかも南に向かなくても使えるのでありがたい。

今回のパキスタンも3週間と長いため日本の電話のローミングを一回使うくらいならシムが買えてしまう。
携帯のシムカードを買いに行く。店の人がスペシャルナンバーにするかい?って聞いてきたが、次回くるまでに有効期限が切れる可能性が高いので普通のナンバーでいいですと答える。

シムを入れ、うまく作動するかチェックした後、「チャイを飲んで行かないか」と誘われた。
ありがたく頂く。初めてパキスタンに来た頃はチャイをご馳走になる度にお金払った方がいいのかな〜と思っていたが、
10年以上かよってチャイをご馳走してくれるのは彼らのもてなしの習慣だと分かってきた。
チャイを飲んでいかないか?と言われその後お金を請求されたことは一度もない。
そうそう、こうやってあちこちでチャイをご馳走になってしまうからこの国にくると太る。

宿に帰ると日本人がいた。パキスタン人と結婚してる人だと宿のオーナーが教えてくれた。
不思議な縁で彼女が結婚した相手は僕がフンザで泊まっていたゲストハウスで働いていたパキスタン人。
また新たな出会いが。
僕のパスポートをいきなりガン見する日本人はどうかと思うが、僕も大人になったのでその辺りは我慢。
またまた偶然にも彼らもペシャワールへ行くというので一緒に行くことにする。




2月28日
朝5時前、いつもより激しいアザーンに起こされる。
耳栓をしていても起きてしまうような大きな、そして長いアザーンだった。
どうも29日がシーア派のアーシュラの祭典らしくいつもより長かったようだ。
寝不足のまま出かける。
今まではピールワダイというバス停が使われていたが、新しくピールワダイモールというバス停が使われているらしい。
結局、日本人とパキスタン人のカップルもペシャワールに行くということなので一緒のバスで行くととにした。
僕としてはバス停までのタクシー代が割り勘になるし、パキスタン人が一緒だとなにかと心強いので渡りに船。

ペシャワールに着くとカニーズホテルが無くなっていた。
え〜どうしようと思いつつ、近所の人に聞くと場所が変わったそうだ。
新しい場所へ行くとそこには立派な新しいカニーズホテルが建っていた。
カニーズホテルのマネージャーは僕の事を覚えていてくれてディスカウントしてくれた。それでも高い。

オーナーとマネジャーが4年ぶりに訪れた僕を見て昔話を始める。
そうそうヤナギダー!捕まって大変だったね〜。
このホテルの人たちはヤナギダダイゲンという名前を一生忘れないだろう。
しかし、残念なことにヤナギダダイゲンの事を話しても分かる日本人はこの先殆どいないと思う。



再会アジーズ
ホテルの2階にあるロビーで本を読みながらアジーズがくるのを待っていた。
17:20
アジーズが大股で階段を上ってくる。oh!アジーズ。Hiro〜!
アジーズは涙を浮かべながら僕に抱きついてきた。
4年振りの再会!

昨年末から年明けにかけて何度もパキスタンから国際電話をかけてきてくれた。
僕の方が貧乏でなかなか折り返し電話をかけられなかったくらい。
彼としては自分が故郷のアフガニスタンへ帰る前にどうしても僕に会っておきたかったそうだ。
アフガニスタンに帰ってしまうと再会できる確率はかなり低くなってしまうから。

ホテルでは話しにくいのでチャイをしに行く。道中アジーズは僕の手を離さない。
歩道は狭く、二人が並んで歩くのは困難なのに、時折前にでて引っ張るように僕の手を握ったままあるく。
こんなに喜んでくれることが嬉しい。アジーズと昔話をする。アジーズが言う

「hiroと初めて会ったのはちょうど10年前だよ。何も変わらないね」と。
そうか、もう10年にもなるんだ。本当、つい先日のことのように思い出せる。
それはアジーズも同じだったようだ。
チャイを飲み終え、早速アジーズの家にお邪魔することになった。

アジーズ家の3姉妹。タヘラ、サヘラ、ラティファ。タヘラは前回、4年前に会った時も遠くから恥ずかしげに微笑むだけで僕の近くに寄ってこなかった。

今回、タヘラの顔は見れないだろうと諦めていたが、次女のサヘラもすでに会えない存在になっていた。
ラティファはなんとか出てきてくれたが恥ずかしげに握手をするだけだった。4年経てばみんな大きくなるもんね。
僕だけが時の流れの中で置いて行かれているようだ。

さらに驚いたのは長女のタヘラは今年14歳にしてもう婚約したそうだ。結婚は19歳になってからするらしい。
あの知的な顔をしたタヘラがどんな大人になったか見てみたい気がする。
それができない伝統的なアフガニスタン社会の習慣に歯がゆい思いも。

しかし、アジーズの奥さんがガンになったという緊急事態の中で家に招待してもらえる外国人はかなり特別なんだと思う。
普段寡黙で古風なアジーズのお父さんが僕との再会を喜んでくれるのはとても嬉しい。



写真:4年前のアジーズ。



4年振りに再会したアジーズ



2月29日
昨晩眠りについてしばらくした後、外で銃声が聞こえた。
何かあった時すぐにカメラを使える状態にしておかなきゃいけないな、と思いつつ銃声だけだったので外に出るのをやめ
そのまま眠りについた。

ペシャワールはピンディーに比べるとテロ事件は少ないそうだが、2日前にロケット弾が車屋さんに直撃する事件があったばかりで安心はできない。地元の人の話によるとターゲットは車屋さんではなくグリーンホテルじゃないかという話だ。
幸い夜中だったため怪我人はいなかった。


ピンディーから一緒に来た日本人の紹介でペシャワールに住んでいる日本人とグリーンズホテルでお茶をする。
アフガニスタンに興味があると聞いていたので、写真集を見せてあげた。かなり気に入ってくれて欲しいと言われたが、
残念なことに一部しか持ってきてなくて、これは僕の名刺がわりにジャララバードで国連スタッフに見せようと思っていた物なので譲る事ができなかった。

イラクでもそうだったけど、一枚の名刺を渡してもすぐに忘れられてしまう事が多い。でも写真集を見てもらった後は結構みんな僕の事を覚えてくれる。

話がはずんだため、ペシャワール郊外のジャンギル地区の素敵なカフェに行くことになった。僕はチーズケーキとコーヒーをご馳走になった。
ペシャワールに住んでいる人が「ペシャワールにもこんなお洒落な店ができたのよ」と言っていた。
お茶をしながらアジーズからの連絡を待っていた。
アジーズから電話。後一時間で迎えに行くと言う。といいつつも一時間後もまだ病院にいるようだったので今日はもういいよ。
奥さんのそばにいてあげてよ。と夕食のお誘いを僕の方から断る。
そうしてあげないと義理堅いアジーズはどんな状態でも僕を招こうと頑張ってしまう。
アジーズの奥さんが病気の為、すぐにはアフガニスタンへ行けそうにない状態だ。


昨晩、ホテルのマネージャーからからカシミール行きを誘われた。
地震の後、いまだ復興していない地域を見て欲しいと。
アジーズに迷惑かけたくないし、これも何かの縁だと思い、カニーズホテルのマネージャー、ハリッドと一緒にカシミールへ行くことにする。

Free×3
アジーズは「最近のペシャワールは危ないから絶対一人で出歩かないでくれ」。と言ったがそんな訳にもいかず、メールチェックするためにインターネット屋さんを探しに行く。
暗くなってからPCを持って歩くのはどうかと思ったが、まいいや!で出かける。
場所が分からず何人かのパキスタン人に道を聞きながら行く。

ここだよ!と案内された場所はPCO(電話やさんだった)。このPCOの人がいい人で付いてきなさいと言って僕をネットやさんまで案内してくれた。
ネットやさんの人たちは英語が分からないけど心配しないでいいよ。値段は一時間20Rsくらいだよ。と丁寧に教えてくれた。

メールをチェックし、ミクシーに日記をアップする。
若い店員が無言のままチャイを出してくれた。メヘルバニ(ありがとう)と言うとちょっとだけ笑顔。
僕が日本語でメールを打つのを横から興味深げな顔で見ている。ちょっとサービスしてあげようと思い、ミクシーにアップしたばかりのピンディーで撮った写真を見せてあげた。

40分ほどで終わり、キットニーカー?(おいくら)と聞くと。いらないよ。という。なんで?なんで?40分も使ったから払うよ。と言っても
払わなくていいよ!と言ってくれた。店員みんなと握手し丁寧にお礼をして立ち去る。

そろそろ片付けはじめる店が多い中、匂いにつられ裏路地へ入っていく。
一人の白髪、白ひげのおじいさんが英語で話しかけてきた。「What is your country?」来た来た、昨日の警察と同じだ。

日本ですよ。と答えるとまたまた同じ「Oh! good good, good country!」。チャイを飲まないか?と誘われた。
さてみなさんならどうします?
僕はお腹がすいていてチャイでなくご飯が食べたいのだけど、やっぱり僕は日本人。断りきれず、キドゥルヘー(どこで)とあえてウルドゥー語で聞く。疑うのはイヤだけど、パキスタンに来るのは初めてじゃないよ。という意思表示。

ウルドゥー分かるんだ!近くのホテルでスペシャルティーを飲もう。スペシャルティーって睡眠薬入り?
ダスミニッツTK?(10分くらいでよい?)と聞くとTK,TK(OK)

おじいさんは僕と英語で話すのが嬉しそうだしいいや、と思いついていく。
と、そこはホテルではなく小さなチャイ屋さん。まあまあ上がりなさい!と奥へ連れて行かれる。
おじいさんと店員三人。ま、まさかの時はなんとかなるだとうと腹をくくり正座をする。胡座をかくといざというときすぐに立ち上がれない。

チャイを飲みながらおじいさんが手の中でこねていた物を僕に差し出して食べなさいという。
何?って聞くとお菓子だよ。ってなんだか垢だらけ。またまた断ることもできず少しだけ頂く。ちょー甘い。
二杯のチャイを飲み終わるとおじいさんと共に立ち上がる。おじいさんは懐から汚い5Rs札を取り出し払ってくれた。
外へ出るとおじいさんは「Anything anther service?」と聞いてくる。ここでご飯が食べたいなんて言ったらおじいさんは間違いなく奢ってくれると思う。それはいかんので、大丈夫。またお会いしましょう。と言って分かれた。

チャイを二杯も飲んだのでなんだか夕食いらない気分になってきてしまった。
なんか昔もこのおじいさんに会っているかもしれない。その時も英語で色々と質問された。同じ人かもしれないと思う、場所も近いし。

ホテルへ帰る。
ホテルの隣にあるチャブリカバーブ(ハンバーグみたいな食べ物)やさんのおじさんが挨拶してきた。
挨拶を交わし通り過ぎようとするとこっちにおいで。と手招きされて、チャブリカバーブを食べていきなさいという。
チャブリカバーブは重いな〜。と見ると卵があった。その卵焼いてもらえるかな。と聞くとTKサー!。
油一杯の中でやいた卵は大変な事になっていた。おじさんは暖かそうなナンを選び卵をくるんでくれた。
キットニーカー?と聞くと。いらない持って行きなさいと言われた。ダメですよ。と僕がいうと。
また来てくれたらいいから。

参ったな〜僅か数時間の間に3回も奢られてしまった。
ペシャワールの人は言う9・11以降テロ事件も多く、観光客は減ってしまったと。
確かに数日おきに爆弾テロがあるような国を旅する気にはなれない。
でもな〜。こんな優しいパキスタン人がいるから来ちゃうんだよ。
ようやくパキスタンに帰ってきたという気分になった一日だった。


3月1日
カシミールへ
カニーズホテルのマネージャーがカシミール出身で、未だに復興が進まないカシミールの状況を是非見て欲しいと言ってきた。
アジーズの奥さんの調子が落ち着くまでアフガニスタンへは行けそうにもないし、これも何かの縁だと思いカシミールへ行くことにする。
後で知ったことだが、カシミール地方へ行くのはパーミッションがいるらしい。
そんな事はつゆ知らず、ハリッドと8歳になるハリッドの息子と三人でカシミールへ向かう。
途中のチェックポイントで警備兵が何か言っていたが、僕はなにも分からずハリッドが友人を故郷に招待するんだよ。と言ってくれ無事切り抜ける事ができた。
ハリッドの従兄弟の家に泊めてもらう。



3月2日
カシミール
山の空気はおいしい。ペシャワールのような騒音もなく、自然が僕を起こしてくれた。
今日はハリッドの実家へ行く。
車を降りてから、細い獣道を30分近く歩かないと実家にたどり着けない。
大変な思いをして訪れた甲斐がある家だった。
地震で壊れた家がまだそのまま残っていたが、そこは誰も邪魔することがない
小さな集落だった。
ハリッドのお母さんに会う。
ハリッドのお母さんは70歳を超えるお婆さんだ。ハリッドに続き、僕も挨拶をする。
僕は小さなお婆さんのあごの下まで僕の頭を下げる。
お婆さんは両手で僕の頭を包むようにして僕の頭に口づけしてくれた。
そう、パキスタン人の家族にするのと同じ扱いをしてくれた。



僕は・・とても嬉しく。
日本にもこのスキンシップの習慣があれば良かったのにと思う。
僕は自分の母親を抱きしめることもできない。
村を去るとき、お婆さんが話しかけてきた。と言ってもお婆さんは英語が話せない。
僕はパキスタンの手話が分かるようだ。お婆さんがジェスチャーで話す
「もう行ってしまうのかい?ここに泊まっていきなさいよ」
お婆さんの気持ちが伝わってきた。
僕は「ありがとう。今回はもう行かなきゃならないけど、必ずまた来ます」
と伝えた。
お婆さんは分かってくれたようで、「いつでもまたいらっしゃい」と伝えてきてくれた。
お婆さんが元気なうちに是非また訪れたいと思う。
ハリッドはhiroのお母さんを連れてきなさいよ。と言ってくれた。
僕の母親はもう歳だし12時間以上のフライトには耐えられないと思う。
でも、もし可能ならこんな世界もあると見せてあげたい。


写真:ラーワルコートの集落




3月3日
パキスタン、アフガニスタンの国境沿いでトラブルが続き、なかなかアフガニスタンへ向かえない。
カニーズホテルは建物が新しくなったため値段が上がっていた。
貧乏な僕としては長期間ペシャワールに滞在するのは厳しい。マネージャーに相談して安い部屋に変えてもらった。
安い部屋があるなら最初から教えてくれよ、とも思ったが、すべては結果オーライということで。

昔の記憶を頼りにペシャワール会の病院へ行く。
藤田さんはお休みで会うことはできなかったが、病院のスタッフが電話番号をおしえてくれたので電話で話すことができた。
最初、「どちら様?」と言っていた藤田さんも少しな話すと僕の事を思い出してくれた。
会えなかったのは残念だが、何年も会っていない僕のこと覚えていてくれたくらいなので、そのうちまた再会できると信じる。
病院の帰りにアジーズのいるナッサルバールへ行くことにする。
病院は外れにあるためタクシーをつかまえずらい。近くにいた警察官に「ナッサルバールに行きたいんだけど」と話すと警察官がタクシーを止めてくれた。
タクシードライバーは100ルピー要求したようだが、警察がにこやかにドライバーの頭をなでながら安くしてやりなよ。
と言っている。
結果60ルピーになった。
もし僕が一人でタクシーをつかまえていたら。100〜150だったと思う。
アジーズの家の近くを歩くと出迎えがいた。なんと5〜6歳くらいのアジーズの友人の子供だった。
アジーズが通りまで出迎えをよこしてくれたのだが、見ず知らずの外国人客を迎えにくるのが5〜6歳の子供だというのがすごい。

3月4日
トルハムボーダーの近くで警備兵がタリバンに襲われたらしい。
おかげで国境へ向かう道は封鎖されてしまい、アフガニスタン行きは延期せざるをえなくなってしまった。
国境を越える為にはトライバルエリアを通過する許可証を取得しなければならない。
(勿論、外国人のみ)
これが期日指定で日程が変わると無効になってしまう。
お役所は日本もパキスタンも一緒でたった一枚の紙切れを手に入れるのに時間がかかる。
何度も許可証を取得しに行かなければならないのが辛い。

アフガニスタン行きが延期になってしまったため、アジーズを誘って昔アジーズの家があったナッサルバールキャンプ
へ行くことにした。
アジーズも4年前に僕と訪れて以来行ったことがないそうだ。
距離にすれば5キロくらいだが、ナッサルバールキャンプがあったころはこの5キロが長かった。
パキスタン政府としては仕方ないのだろうが、友人に会いに行くのに国境を越えるがごとくパーミッションが必要で
チェックポストを二つも通過しなければならなかった。
毎回パーミッションなんか取っていられる訳もなく、キャンプ内を歩く時は別だが、アジーズの家に行くだけの時は
タクシーに隠れて何度もいった。
僕にはいつも助けてくれる優秀なドライバーがいる。
ペシャワールにはハビーブ、クエッタにはサマジャン。
ハビーブは優秀で小さなタクシーを運転し検問を突破したり隠れろ!って合図したりするのはまるでルパン三世のようだった。
クエッタのサマジャンは何者か分からないがhiroを狙うやつはこうだ!といきなり車の床下からコルトガバメントを出すすごいやつだった。
もう5年くらい会っていないな。
ペシャワールの助っ人ハビーブは拳銃こそ出さないが、パキスタン人、アフガニスタン人に多くの友人を持ちとっても機転がきく男だ。
ハビーブが夕食に誘ってくれた。
ところが向かえに来てくれたのは僕が知らない人。しかも英語は全くダメ。
まハビーブの連れだから大丈夫だと思いつつも夜のお出かけにちょっと緊張。
車が走り出すと、どうも旧市街の方に向かっている感じがした。「ねえ、ねえ何処まで行くの」と聞くが返ってきた答えがよく分からない。10分ほど走り車を止めたドライバー。降りなって合図する。
え?ハビーブは?と思っていると暗闇からハビーブが現れ「hiro! How are you?」とパキスタン訛りの英語で。
着いた場所はナマック・マンディーと言うところだった。
彼の友人3人を含め全部で5人での食事になった。
ここの肉が一番新鮮で美味しいんだ!とハビーブが自慢するレストラン(食堂)はとても美味しかった。
羊さんのお肉はもう食べたくないと思っていた僕の気持ちを変えさせてくれるほどに。
ハビーブの友人にバジョワール(トライバルエリア)から来たゾーズモハマッドがいた。
周りのメンバーが彼のニックネームは(チューズ)だというので僕がチューズと言うと、
みんなが腹を抱えて大笑いする。どうもおかしな意味らしいが、最後まで分からなかった。
パキスタン人二人、パターン人一人、アフガニスタン人一人、日本人一人の夕食会だった。
お会計で僕が払おうとするとハビーブが「no! you are my guest」と言って受け取ってくれなかった。
ハビーブが払おうとすると他のメンバーがhiroとお前は今日のguestだと言って3人で払ってくれた。
ハビーブ以外、英語は殆ど話せないメンバーなのにとても楽しい夕食会だった。



3月5日
ホームデパートメント、トライバルエリアという自治区を通過する許可証を取りに行く。
日本人の僕が一人で許可証を取りにいく場合とアフガニスタン人と一緒行く場合とパキスタン人と一緒に行く場合で
対応が違ってくる。
僕一人で行く場合は運次第。許可を取るのに最低三人のオフィサーに会わなければならないが、運が悪いと三人に会うために3回ホームデパートメントを訪れなければならない事もある。
勿論、言葉の問題もあり苦労するのは間違いない。
アフガニスタン人と一緒に行く場合は言葉には問題がないが、パキスタン人のオフィサーでアフガン人嫌いな人にあたると厳しい。
一番良いのは地元パキスタン人と一緒に行くことだが、地元だけに別に許可なんかいらないし、直接行って大丈夫だよ。
などという誤解に気をつけなければならない。
今回はアフガン人の友人とともに許可を取りに行った。
パキスタン人のオフサーが賄賂を要求する場面があったが、僕は言語が理解できないふりをしていた。
一人のオフィサーが昼休みだと言うことで(賄賂がほしかったらしい)多少待たされたが、2時間弱で許可を取る事ができた。



3月6日
ようやくアジーズとともにアフガニスタンへ行ける日が来た。
待ち合わせの時間は7時から7時半の間「ホテルに迎えに行くよ」。というアジーズの言葉を信じてホテルで待つが7時40分を回ってもアジーズが来ない。
電話してみると、ナッサルバールに来ると思って待っていたと言う。
度々あるミスアンダスタンディングだが、今日はマズイ。11時からジルガが始まり、国境への道が封鎖されてしまうおそれがある。
急いでナッサルバールへ向かおうとタクシーを探すが、朝の通勤時間のせいでボッタクリがすごい。300ルピーはまだしも500ルピーと言われたときには目が落ちそうになった。
結局なんとか良いドライバーを見つけ100ルピーで行ってもらうことになった。
通常は70ルピーが相場なので少し高いが、大荷物を持っている外国人でなおかつ通勤時間帯なら仕方ない値段かもしれない。
08:05予定より少し遅れたが、ナッサルバールで無事アジーズと合流する。
ジルガが始まる前にトライバルエリアを抜けられる事を祈りつつ、トルハムボーダーへ向かう。
お陰様で出発が遅れたにもかかわらず、国境へ向かう道が風封鎖される前に国境に到着することができた。

国境の雰囲気はかなり変わっていた。
なにせイミグレーションが混んでいない。前回はパキスタン側のイミグレーションで出国の時かなり待たされた。
2003年の夏、国境のゲートが壊され、アフガニスタン人とパキスタン人は通過が自由になったそうだ。
そういえばアジーズはイミグレーションに来ず、荷物の番をしていてくれた。
アジーズとアジーズの従兄弟ライスは国境を顔パスで通過してしまった。
「チェクはしなくていいの?」と聞くと、見た目がアフガニスタン人やパキスタン人に見える人はフリーパスだそうだ。
世界から国境がなくなればいいと思う僕だから、ま、いいかとも思うが、最近の治安の悪さを考えるとフリーパスもどうかと思う。
10:50ボーダーを超えてジャララバード行きのタクシーに乗る。
パキスタンからアフガニスタンに入った瞬間は僕もアジーズも子供のように喜んでしまった。
国境で記念写真を撮り、大はしゃぎ。「hiro~!welcome to my country!」
アフガニスタンに入ると誰でも気づく一つの変化がある。車が右側通行になる。
経済的にはパキスタンの方が上だと思うが、タクシーや一般の車はアフガニスタンの方が新しくいい車が多いのが不思議だ。

エアコン付きの立派な車に乗り一路ジャララバードへ。
懐かしいジャララバードの風景をみながらダイレクトにアジーズの故郷ゴレイキに向かう。
10年という長い付き合いのアジーズがどんな場所で生まれ育ったのかとても楽しみ。
ゴレイキはアジーズが話したとおり、山間部の非常に自然が豊かな良い場所だった。
アジーズの家は予想より大きくびっくり。お兄さんがイギリスに出稼ぎに出ているため生活はある程度豊かなようだ。
部屋はトータルでいくつあるか分からないくらい大きな家だ。
しかし何故か8畳くらいの小さな部屋に5人がざこ寝する。
ジャララバードはアフガニスタンでも猛暑で有名な土地。今回も春を迎え、昼はかなり暑くなってきている。
しかゴレイキは標高も高いようで夜はとても冷える。
勿論、電気はなく携帯のライト機能とダウンジャケット、そしてシュラフが大活躍した。
ゴレイキの人たちは携帯電話を持っている人が多い。アフガニスタンに限らず最近では僻地で電話整備をするのに固定電話より携帯の方が電波アンテナを設置するだけですむため比較的早く整備できるようだ。
しかしゴレイキには殆ど電気がない。
どうしているのかとアジーズに聞くと村に大きなバッテリーがあり、みんなそこに携帯を持って行って充電しているそうだ。
時代を感じた。

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