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タイ日記
フォトジャーナリスト久保田弘信公式サイト



タイ日記
2月5日
7年ぶりにタイに赴く。目的は前回北朝鮮で一緒だった藤川和尚と共にインパール作戦生き残りの日本兵に会い、インタビューをすること。久しぶりだなー。二度と日本の土を踏めないかも?という覚悟せずに海外に出るのは。緊張感のない海外、なのに風邪。インフルエンザだったらどうしよう。重い体を引きずってNH915便に乗り込む。タイに行くのに日本の飛行機で行くというのも、僕としてはかなりの贅沢。懐かしいタイへの思いがあるものの熱っぽい体をどうすることもできずに眠りに落ちた。ドムアン空港に着いたのは23時過ぎ。時間が遅く、市内へのバスがもうないためタクシーでスクンビットへ向かう。24:30ホテルにチェックインした。ここまま寝ようかとも思ったけど、7年振りに訪れたタイの町にくりだした。体調が良くないから屋台は止めようなんてことは僕にはできなかった。早速屋台でセンミーを食べる。30バーツ。始めてタイに来たころは10バーツだったなー。最後に来た時もたしか20バーツだった。物価があがったんだなーと思う。しかし美味しい。久しぶりにタイの雰囲気を思い出す。

最後にタイを訪れた時に建設中だったBTSが見事に開通していた。

開通当初、運賃が高く人気がなかったBTSだが、駅に色々なショップができることによって乗客も増えたようだ。

4月6日
朝一番で藤川さんと合流し、ドムアン空港へ向かう。メソートまでは深夜バスを利用しても良いのだが、今回は時間を節約したいので飛行機で行くことにする。生まれて初めてタイで国内線を利用する。以前タイに来ていたころなら想像もできない贅沢ぶりだ。プーケットエアー(プロペラ)でメソートへ、機内が異常に寒い。すきま風が通っている感じがする。


タイとミャンマーの国境。


2月6日
朝一番で藤川さんと合流し、ドムアン空港へ向かう。メソートまでは深夜バスを利用しても良いのだが、今回は時間を節約したいので飛行機で行くことにする。生まれて初めてタイで国内線を利用する。以前タイに来ていたころなら想像もできない贅沢ぶりだ。プーケットエアー(プロペラ)でメソートへ、機内が異常に寒い。すきま風が通っている感じがする。
震えながらの飛行を終え、メソートに降り立つとそこは灼熱といえば大袈裟だが日本の夏でも味わえないような暑さが待っていた。
空港には藤川さんの友人である白倉さんが出迎えに来てくれていた。タイは比較的良いが、どの国でも空港から市内に行くまでが一番気を遣う。
バスは難しいし、タクシーはボッタクリが多い。今回みたいにお迎えがあるととても楽でいい。今までだったら陸路で移動の所を飛行機を使い、お迎えの車まであるというのは、本当に贅沢な取材だと思う。
早速ホテルにチェクインし、一時間休憩をとった。というのも贅沢に罰があたったか、僕としては珍しく海外で熱を出していた。寒い地域で熱をだすのもつらいが、暑い地域での熱はもっとつらい。呼吸をするだけで熱が上がっていく感じさえする。
昼食は藤川さんの希望もあり中華。僕も体調が悪いだけに中華は大賛成。メソートには意外なことにモスリム多い。以前タイに来たときは気がつかなかったが、インド、パキスタン、アフガニスタンを訪れた後になってみると不思議な感じがする。

今日はとりたてて予定が無いため、昼食後ミャンマーへ行くことにする。体調が思わしくなかったが折角のチャンスなので、藤川さんの案内で国境へ行く。
メーソートは国境の街、中心部から国境まで車で10分少々。国境を越える手続きは簡単なものでパスポートを見せ、手数料を払い数分で終わる。ミャンマーへは橋を渡るのだが、この季節水深も浅く、タイ人ミャンマー人は川を渡っている。簡単に言えば密入国なのだが、イグレーションから丸見えの場所で川を渡る人が沢山いるのが面白い。藤川さん曰く、「国境なんて人が勝手に決めた物だし、意味ない」。そう思えば国境を接する人たちが川を渡るのは自然なことかもしれない。
暑い!ちょー暑い炎天下の中、黄色い袈裟の藤川さんとカメラを担いだ僕が並んで歩くのは異様な姿かもしれない。橋を渡っていると「ガイドはどうだね!」
としつこくついてくる人がいる。タイ語を話すことができる藤川さんがいらない!といってもついてくる。たまりかねた藤川さんが何事かガイドに叫ぶと、ようやくガイドは諦めて僕たちから離れていった。その手際の良さに驚いた僕は「藤川さんなんて言ったんですか?」と聞くと藤川さんは「あまりしつこくすると地獄に落ちるお経?をよむぞ!」と言ったんだよ。実際はそんなお経などないらしい。さすがに北朝鮮に黄色い袈裟姿で行くお坊さんだけのことはある。あな恐ろしや!

ミャンマーの人力タクシー。顔の白い化粧がミャンマーらしい。

橋を渡りきりミャンマーに入ると早速ミャンマーらしい風景が広がっていた。一番に目についたのは人力タクシー。自転車に荷車を連結したような人力タクシーがあちこちで走っている。タイから川を渡っただけなのに時間の流れが違うのを感じる。僕にとっては二度目のミャンマーだが、前回以上に時間の流れが緩やかだと感じる。しかし、暑い!炎天下を徒歩で何キロも歩く。まだ若い僕でさえ倒れそうな暑さなのに隣を歩く還暦のお坊さんは汗こそ流しているものの足取りは僕以上に確か。ミャンマーに入って目につき始めたのが女性の坊さん。尼さんとでも言おうか。しかも年齢が若そうだ。10代とおぼしき尼さんが炎天下を托鉢しながら歩いている。二人連れの尼さんが藤川さんに気づくと手を合わせて拝んだ。

ミャンマーの比丘尼


お隣の国タイから来たお坊さんに敬意をはらったのだろう。尼さんにカメラを向けるなんて失礼かと思って躊躇っていると、藤川さんが、いいよ。と写真を撮ることを許可してくれた。お陰で素敵な尼さんの写真を撮ることができた。
暑い時の避難場所は・・お寺。藤川さんとミャンマーのお寺を訪れた。タイのお寺もきれいだが、ミャンマーにくるとよりインドに近いような寺院と仏像の作りになる。寺院には周り方があるのを僕は知らなかった。タイのお坊さんが片方の肩だけ出しているのが大きなヒント。さて右回りだったかなー?お寺をでて裏路地を歩く。ミャンマーの人たちの生活風景が見えてくる。さすがに疲れた僕たちはレストランに入り、水分補給をした。
夕方になり再び僕たちはタイに戻った。タイに戻った頃、僕の体調は最悪の状態を迎えつつあった。





2月7日
秋山さんと合流。
一日遅れで、ライターの秋山さんがメソートにやってきた。昨日同様、白倉さんと藤川さんと僕というメンバーで空港まで迎えに行く。メソートの空港はとても小さく、よそ見をしていても秋山さんを見逃すことはなかった。少しダンディーな格好で秋山さんが現れた。昨日同様、朝ご飯としてお粥を食べに行く。体調が悪い僕としてはお粥はありがたかった。
朝食後、ようやく本題に入る。今回の目的はインパル作戦を生き延びた日本人にインタビューをすることだ。秋山さんは本を書き、僕はどこかでインパル作戦の生き残り兵士を紹介したいと思っていた。残念なことに未だテレビ、雑誌で紹介するチャンスはない。
インパル作戦の生き抜いた日本人でメソート市内に住んでいる中野さんに会いに行く。少し緊張しつつ中野さん宅を訪れると、中野さんは市場に買い物に行っていると聞いた。白倉さんは待たせてもらおう、と言ったが、僕と藤川さんは折角だから市場に行こうと言った。「市場は広いし、行っても会えませんよ」と白倉さん。ま、会えなくてもいいじゃない、と僕と藤川さん。市場に行き、車を止めるとそこには買い物を終えた中野さんがいた。やっぱねー。運命なんてこんなものだ。しかし、80歳を超え大きな車を運転して市場に買い物に来る中野さんはタフだと思う。藤川さんが中野さんに挨拶をする。中野さんは藤川さんを覚えていたようだ。折角市場に来たので、少し市場を見てから中野さん宅を訪れることにした。
中野さんのインタビューは2時間程続いた。戦争の体験を淡々と語る中野さんだが、聞いてる僕としては本当に大変な経験をされたと思った。時給自足を強いられたインパル作戦では敵の弾に当たって亡くなった人よりコレラなどの病気で亡くなっていった人の方が多かったそうだ。二階に上がらせてもらうと、そこには若かりし頃の中野さんの写真と天皇陛下の写真があった。
インタビューを終え、昼食へ。この頃僕はかなり限界にきていた。暑い国での風邪も大変なもので、呼吸するたびに肺が焼けるような感じだった。
あまりに風邪が酷いので、白倉さんの勧めでメソートの医者に行く事にした。昼食を終えてお茶をしている藤川さん達に待っていてもらって、近くの医者に行く。藤川さんが「大きな注射を一本打ってもらえばすぐに直るよ」と意味深な笑顔で言う。冗談じゃないですよ。日本でさえ注射が怖いぼくなのに。藤川さんの期待に反して女性ドクターは注射を打たずにピンクや緑の派手な薬を僕にくれた。
夜はタイに住んでいる東さんと、女性の?さんと一緒に夕食を食べた。

現在の中野夫妻。自宅の前にて。

2月8日
藤田さんのもとへ!
インパル作戦を生き延びた三名の日本人のうちの一人藤田さんに会いに行く。
藤田さんが住んでいるのは僕たちがいるメソートからチェンマイ方面に4時間近く車で走った所。アフガニスタンやパキスタンに比べれば路は整備されていてかなり走りやすいものの、さすがに4時間は疲れる。僕でさえ疲れるのだから、還暦を過ぎた藤川さんにはきついだろうと思う。
89歳になる藤田さん。仲間の遺骨を収集して、自宅の前に慰霊塔を作っていた。「折角この地で眠っているのに厚生労働省の連中が遺骨を持って帰ってしまった」と悲しそうに話していた。藤田さんは何年もの間「早く見つけに来てくれ」と叫ぶ仲間の夢を見、生き残った自分に課せられた使命と思い、仲間の遺骨を収集し続けていたそうだ。最近は仲間の夢を見なくなったと話してくれた。多少ボケが始まりそうな気配があるものの、89歳の目はまだ生きていた。藤田さんにまつわる話はまだまだあるのだが、とてもじゃないが重すぎて僕の日記では紹介しきれない。いつの日かまとめたいと思う。


2月9日
最後に日系人でブラジル人でインパル作戦に従事した坂井さんに会いに行く。
坂井さんはブラジルから一時帰国していたときに徴兵され、インパル作戦に参加する
ことになってしまった運命の人だ。

ブラジルで生まれ育った為、日本に来たときは日本語が全く話せなかったそうだ。そんな状態で戦争に連れて行かれ、何とか戦争を生き延びた強運の持ち主だと思う。坂田さんにも長時間のインタビューをした。これまた深すぎてそのすべてを紹介しきれないが、僕の印象では坂田さんはとても優しいおじさんだった。日系のブラジル人として生まれ、日本に帰国したのをきっかけに戦争を経験し、最終的にタイでその余生をすごそうとしている。三人のもと日本兵にインタビューをしたが、三人共通していえるのはとてもタフだということ。かつての日本人のタフさを思い知った気がする。
いつの日か必ずこの三人のインタビューをまとめあげます。
今回の目的を果たし、お昼は国境近くで中華を食べる。この頃藤川さんの様子がおかしくなり始めた。どうも藤川さんに風邪をうつしてしまったようだ。いかん、還暦を過ぎた人に風邪を移し何かあったら大変だ。藤川さんに移したせいか、僕の方は体調が良くなり始めていた。
藤川さんは体調がよろしくないので、休んでいてもらって、僕と秋山さんでカレン族の難民キャンプへ向かう。僕もまだ完調ではなかったが、折角のチャンスなので行くことにした。タイ領内にあるカレン族の難民キャンプは歴史が古く、それ故数々の問題をはらんでいる。僕たちが向かった難民キャンプも数ヶ月前に焼き討ちをくらったそうだ。難民キャンプはもうカレンの人たちの村のようになっていた。子供達の笑顔も素敵でアフガニスタンの難民キャンプに比べると支援が行き届いているように見えた。

カレン族の子ども達

メソートに来てからずっとお世話になったドライバーはとてもいい人だった。外国では良くあることだが、最終日になると値段をつり上げたりチップを要求するようなこともなく必要なときに必要なだけ助けてくれる理想的なドライバーだった。

2月10日
バンコクにて
今回の取材をすべて終え、バンコクに戻ってくる。
今回はうかつにも風邪をひいてしまったため、とっても辛い取材になってしまった。
ドムアン空港で藤川さんと朝食を摂りお別れをする。最後まで咳き込んでいた藤川さんがとても心配だった。(藤川さんは現在も元気です)藤川さんと別れ、さてどうしよう?と思った。僕の帰国の便は夜だし疲れた体で観光するよりベッドに横になりたい気持ちが強かった。試しにエアポートホテルの休憩料金を聞いてみる。!無理、とてもじゃないがもったいなくて払えない。空港にいても仕方ないので市内にでてどこかでのんびりしようと思いバス停に向かう。バス停に着くとちょうどカオサン行きのバスが出発間際だった。いつもの僕のようにこれは運命だと思いカオサン行きのバスに乗り込む。カオサンに行くのは何年振りだろう。カオサンはバンコクきっての安宿街でバックパッカーに人気の場所だ。それ故おかしなバックパッカーも多く、学生の時に訪れていらい足を向けていなかった。カオサンに着いてビックリ。昔のイメージはほとんど無くあか抜けたオシャレな街に変わっていた。僕のイメージで何となく原宿のような服屋さんが増えていた。
風邪をひいていることも忘れ、カオサンを散策していると懐かしいパイン屋さんを見つけた。なんと値段も昔と変わらず10バーツだった。歩きながらカオサンで昔懐かしいパインを食べた。カオサンからバスでスクムビットに向かい、生まれて初めてのタイマッサージを経験した。ちーと痛かったがかなり体が楽になった。夕食は日本の8番ラーメンを見つけ、ラーメンと餃子のセットを食べた。8番ラーメンがタイ人でにぎわっているのにビックリした。ドムアン空港に戻り、日本への飛行機に乗り込み今回の旅が終わった。
この日記はコソボに向かう飛行機の中で仕上げました。fin



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